1st Battalion / 72nd Armor Regiment "First Tank"
Camp Caseyに駐屯する第72機甲連隊第1大隊、「First
Tank」は、非武装地帯から20kmに位置する。部隊は、ほとんどの北朝鮮砲兵の最大有効射程内で生活し、日常作戦を実行し、韓国への主要接近経路上に位置している。脅威部隊へのその近接の結果として、1-72 ARは、即応性と訓練に絶えず焦点を合わせている。First Tankは、Camp Caseyの残部から離れたDragon
Valleyに位置する。
第72機甲大隊は、第5機甲連隊A中隊、後に第16機甲師団第717戦車大隊としての動員にその起源を遡る。第717大隊は、ラインランドと中欧戦役に参加し、ほとんど第79歩兵師団の支援で認められた。戦後の1948年に2度再編され、大隊は、第717重戦車大隊A中隊となり、広大なMohave砂漠のカリフォルニア州、Camp Irwinとして知られる小駐屯地に駐屯した。
1948年10月15日、大隊は、ワシントン州、Fort Lewisにおいて第72重戦車大隊A中隊に改称されたとき、第2歩兵師団の戦士とのその長い関係を始めた。1950年6月25日、合衆国は、北朝鮮軍が38度線を越えて南を侵略したとき、再び侵略に直面した。第72機甲大隊の隊員は、1950年8月2日、韓国釜山を目的地とする合衆国海軍輸送艦General William Mitchellに乗船したClark Webber中佐の指揮下、軍の要求に応えた。M4A3 E8(Easy Eight)シャーマンを装備した第72重戦車大隊は、不屈の戦士としての評判を迅速に得た。彼らは、おどけて「untankable」と称された地形に迅速に適応した。1950年9月1日、MSG Slarrowは、最初の朝鮮のT-34を撃破した。
同日、大隊の不屈の精神は、韓国アンゴク付近での敵に対する行動で名誉勲章を獲得したMSG Ernest Koumaの行動で具現化された。彼の部隊は、洛東江戦線において、歩兵部隊の支援に従事していた。8月31日の深夜頃、推定500人の敵部隊が、川を渡河し、大損害を与えつつ、歩兵陣地に対する猛攻撃を開始した。退却が命令され、彼の機甲部隊は、第2陣地が確立されるまで、移動を援護する任務が与えられた。敵の突撃は、2台の戦車を蹂躙し、1台を破壊し、もう1台に退却を強いた。突然、Kouma軍曹は、自分の戦車が敵の猛攻の経路における唯一の障害であることに気付いた。持ち場を保持しつつ、彼は、自分の搭乗員に射撃命令を下し、反復される敵の攻撃を撃退しつつ、夜間を通して陣地に止まった。1つの激しい突撃中、敵は、彼の戦車を取り囲み、彼は、砲塔から飛び出し、
敵火の中に身を乗り出しながら、後部デッキに搭載された.50口径機関銃を操り、狂信的な敵に直射をお見舞いした。機関銃が空になるや、彼は、戦車から敵を引き離すために、拳銃を撃ち、手榴弾を投げた。9時間以上の絶え間ない戦闘と近接戦闘の後、彼は、自分の車両を友軍線まで退却させた。敵地からの13kmの退却中、Kouma軍曹は、敵に損害を与え続け、3ヶ所の敵機関銃陣地の破壊で弾薬を使い果たした。この行動中、Kouma軍曹は、推定250人の敵兵を殺した。彼の堂々たる抵抗は、防御時陣地を再確立するのに十分な時間を歩兵に与えた。自分の中隊に合流し、重傷を負っていたにも拘らず、彼は、自分の戦車に再補給し、戦場に戻ろうと試みた。
第72大隊は、一連の紛争中、第1、第9及び第10軍団と有名な英第27旅団等、多くの部隊を支援した。A中隊が加平邑近隣でパトリシア王女カナダ軽歩兵を支援したとき、この決定的な勝利は、First Tankerに大統領部隊感状をもたらした。
■編成
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本部中隊、「Headhunters」 |
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Alpha中隊、「Aces」 |
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Bravo中隊、「Black Knights」 |
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Charlie中隊、「Cobras」 |
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Delta中隊、「Demons」 |
■装備
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M1A1×58両 |
■駐屯地
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Camp Casey |
最終更新日:2004/03/19